場末の映画館

昔は、映画館が小便臭かったもんだがなあ。

私のSFドラマ初体験。デロリアンよりも格好がよかった「タイムトンネル」

 私がSF小説にさよならを言いかけたのは、小学5年生くらいだったと思う。

 当時私は、イーイースミスとかいう外国人の書いた「スカイラーク」シリーズという脳天気な宇宙ものにはじまり、「フェッセンデンの宇宙」や「宇宙知性チョッキー」など、それまで読んでいた「日本文学全集」とは全然違う世界に夢中になり、さらにはSFマガジンとか言ううさんくさい雑誌も購入するような変態小学生になっていた。

 そんなある日、きっかけは忘れたのだが、「タイムトンネル」というSFドラマをテレビで見たのだ。確か、NHKだったと思う。

 いやあ、驚いた。私が夢中なSFの世界が、リアルにそこに映し出されているではないか。辛気くさく文字を読み進めなくても、ただ見ているだけで、その世界に浸ることができるのである。ラクチン極まりない。いや、ラクチンチンと言っても過言ではない。

 そして何より、タイムマシンの造形が素晴らしかった。古今東西、タイムトンネルほど魅力的なタイムマシンは存在しないのではないか。リングが重ねられた巨大なトンネル状の装置で、白と黒のコントラストにより奥行き感が強調されていて、いかにも時間移動が可能のように感じられる。それがパッと見て感じられる喜び。

 それ以前にも「宇宙家族ロビンソン」というSFドラマを見たことがあるのだが、ノリが吉本新喜劇的なところがあり、生真面目な私には不愉快な点も多かった。だが、「タイムトンネル」は真面目な作りで変なギャグもなく、安心してハラハラドキドキさせられたのだ。私にとって最初のSFドラマ体験は「タイムトンネル」と言ってもいいだろう。

 ただ、そうしたSFドラマが何本も放映されるわけではなく、やはり私のSF体験は小説に頼ることがずっと続いた。その頃には日本人のSF作家も雨後のチンポコのごとく出ていて、小松左京星新一筒井康隆といったBig3から、眉村卓荒巻義雄山野浩一、さらには平井和正や豊田あり箇ね……おいこらATOK豊田有恒くらいきちんと変換せんかいっ。Googleの方が優秀やぞっ。

 翻訳物のSF小説も次々に出版され、読んでも読んでも読みきれないという、まさにハーレム状態。仕方がないので授業中に読み続けて、注意されても「先生の話よりも面白い」と読み続け、親が呼び出される事態となったのである。
 
 ああ、この頃のSF小説は面白かったなあ。いや、弾圧されるほどに宗教団体が結束を固めるように、規制されることが面白さにつながっていたのだろう。勉強しなければいけないのについついゲームのコントローラーに手が伸びるあの背徳的な喜びは、誰にも経験があるはずである。

 今は立派な半痴呆状態のジジイになってしまったから誰も私を規制などしないのであるが、そうなると「読みたい」という原動力が薄れてしまい、いまや週に1冊のペースなのだ。情けない。

 さて、「タイムトンネル」は、アリゾナ砂漠の地下深くに作られているのだが、まだ未完成の状態で二人の研究員が別の時代に送り込まれてしまうという設定だ。
 
 確か第一回はタイタニック号が舞台だったと思うが、細かい内容は覚えていない。おそらく「この船は、沈むんだってば!」と言い立てる主人公たちに対し、「アホか。こんな巨大な客船が沈むわけないやろ」と船長たちは彼らを異常者扱い。腹を立てた二人は「じゃあ、知るかっ。勝手に死ねや」と別の時代へ逃げ出すというストーリーだったと思う。

 タイムトンネルの本部では二人の存在をキャッチするのに必死になっているのだが、いつも「危うし!」というタイミングで間に合うのである。「二人をキャッチできました」「よし、タイムワープだ」と二人は、次の危機的状況に放り込まれるというわけだ。

「タイムトンネル」に関しては、ひとつ忘れられないエピソードがあって、私が「タイムトンネル」を見ていると聞いた父親の同僚がこう言ったそうだ。

「うちの息子は、『相対性理論で時間旅行は不可能だとわかっているので、あんな番組は見ない』と言っている」

 それを伝えた父親は、いかにも「お前もあんなドラマを見るのはやめて、相対性理論を勉強しなさいと言いたげで、私は思わず呆れてしまった。そんな馬鹿なセリフを真に受けてしまったのか。私は、大きくため息をついてから言った。

「父上、ではその息子とやらは『吾輩は猫である』も否定するんでしょうな。猫が『吾輩は猫である。名前はまだない』などと独白することなどありませんからね。また、いくら丈夫だからと言って蜘蛛の糸が人を支えられるわけがない。だから『蜘蛛の糸』も読まないんでしょうね。日本を代表する文豪である夏目漱石芥川龍之介を否定するとは、いや、これはたいした小学生ですな」

 実は私も時間旅行は不可能という話は知っていて、確か小学生向きの雑誌に載っていたのだ。父親の同僚の息子も、それを読んで父親を喜ばそうとそんな発言したのだろう。浅はかな親子である。

 父親は私の言葉を聞いてなるほどと納得し、「お前が正しい。不可能だからドラマを見ないなど、愚かな発言だ」と頭をなでなでしてくれたのだが、私としては、かなり悲しかったのである。頭がいいと思い込んでいた父親が、実は単なる漢字をよく知っているだけの男だったと気がついてしまったからだ。

 やっぱり学校の勉強などいくらしても無駄だな。

 成績がいつも学年で一番だったと自慢していた父親の存在感が急激に薄れ、私はそれ以後、授業を聞くことも宿題をやることも一切なくなった。そして、そのことに対する罪悪感や劣等感も消え失せた。

 私は、中学高校大学を通して勉強の代わりに本を読み続け、成績は最低だが文章力だけはアップし、そのおかげでなんとか飯が食えるくらいにはなったのである。
 
 めでたしめでたし。