場末の映画館

昔は、映画館が小便臭かったもんだがなあ。

おれか? たとえて言えば、会話術に優れたゴルゴ13のようなものだ

 

 出社してすぐに、エレベーターでオッサンと一緒になった。

 同じ階に事務所を構えるオッサンである。なんとか法律事務所とネームプレートが入っているので、弁護士とか司法書士とかだろう。オッサンに興味はないので、詳しいことは知らない。

 おれは危機管理能力の固まりのような男だから、例え顔見知りでも油断はしない。若い頃からゴルゴ13が愛読書だ。

 また、犯罪ドラマも大好きである。当然、ドラマには毎回加害者と被害者が出てくるわけで、危機管理能力はより研ぎ澄まされるのだ。

 この間見た「クリミナル・マインド」のように、普通のオッサンが突然殺人鬼になる可能性もある。確か「ありふれた狂気」というタイトルだったか。

 油断大敵。伏寇在側。英語で言えば、Security is the greatest enemy.(安心は最大の敵)である。

 弁護士だか司法書士だか知らないが、このオッサンだって突然殺人鬼になる可能性はある。特にこのオッサン、ウンコが臭いことでビル内でも有名なやつだ。信用ならないのである。

 後ろから刺されては防ぎようがないので、先に乗り込んで一番奥にピタっと張り付いた。これで後ろを取られる心配はない。

「今日はひどく蒸し暑いですなぁ」

 突然、オッサンが話しかけてきた。

 おれは危機管理能力もすごいが、社会人としての会話能力もすごい。新宿高等話し方教室に通っていた男である。

 こういう時は、元気に肯定するのがベストだ。

 間違っても「あれ、そうですか。気温はそれほど高くないでしょう」などと否定してはいけない。相手の気分を害することになり、刺される可能性が高くなる。

「そうですねっ」とおれは元気いっぱいに答えた。

「蒸し暑くて眠れませんでしたよ」

「そうですねっ」とおれは再び肯定し、さらに高等話術であるミートゥートークを披露した。

「私もですよっ」

 ここまで迎合したんだから、まさか突然腹を立てて刺されるなどということはないはずだ。エレベーターが7階に着き、おれはオッサンを先に降ろしてからエレベーターを出た。やれやれである。今日も殺されることなく事務所にたどり着けそうだ。

 前を歩くオッサンの背中を凝視しながら、おれはふき出した額の汗をぬぐった。