場末の映画館

昔は、映画館が小便臭かったもんだがなあ。

その空も裸の女も、つまるところは紙である。

 

なにが美しいってあなた、空ほど美しいものはない。

夕焼けはもちろんだが、青空も曇天も雨雲もすべて美しい。海や山々も美しいが、その色合い、造形において、空の美しさは突出している。あまりの美しさに、私は感動が極まって脱糞することがある。いや、まあ、それは嘘なのだが、それほど美しいということである。

昨日も夕焼けが美しかった。西の空がオレンジ色に染まり、雲が紅く燃え、山の稜線が黒く縁取られ、水田に夕焼けが映り、まるで一幅の絵である。そのあまりの美しさに私は思わず脱糞するのであるが、ここで注意すべきことがある。

肛門を硬く閉めよ、という注意ではない。脱糞など気にする必要はない。気にすべきは、いくら感動しても、写真は撮るなということである。

正直、私はその夕焼けを撮ってしまった。「美しいじゃないか」とL.L.Beanのフィールドコートのポケットからデジカメを取り出し、シャッターを押したのだ。そして、帰宅してからパソコンに取り込み、画像を確認してひどくがっかりした。いつもそうである。

私の愛機GRデジタルは、決して安物のカメラではない。描写力においてはそれなりに優れているはずである。だが、モニターに映し出されたこの夕焼けはいったい何なのだ。のっぺり、陳腐、ポンポコピー。先ほど見たはずの雄大な夕焼けの1%も表現できていないではないか。

確かに写真としては美しい。だが、薄っぺらなのだ。あのスケール感、何よりも空気感が皆無なのだ。ウンコとかりんとうが似て非なるものであると同様、本物の空と空の写真との間には、越えられない垣根があるということだ。

つまりは、写真は写真でしかないのである。

もう、何十年も前のことだが、私がたどり着いたひとつの真理がある。今はネットでいくらでも助平な画像や動画が見られるのだが、当時はエロ本しかなかった。そんな寂しい時代に気付いた真理である。

その時、私は乏しい資金を前に「やっぱりこの巨乳女子高生のを買うかな。だが、とても女子高生には見えんしなあ。どうみても32歳だぞ。こっちの団地妻の方がエロそうだし表題に嘘偽りのない点は評価できる。いやいや、待て。それならこっちの熟女の方が」などと思い悩んでいて、ふと、自分が馬鹿に思えたのだ。

エロ本を前に思い悩む自分に嫌気がさしたのである。

私は思わず「こんなもんつまるところは紙ではないか。紙の上にインクが乗っているだけにすぎんのじゃあ。わしが追い求めるのは、本物のエロい女であって、こんな紙ではないはずじゃあ」と自分に強く言い聞かせたのである。私がエロを求めるその本質に気付いた瞬間だった。

で、そのまま本物のエロい女を捜しに巡礼の旅に出たかというと、実際には団地妻のエロ本を買ったのであるが。まあ、印刷物とは言え、日本の印刷技術は優秀だからね。そもそも江戸時代の浮世絵に興奮していた連中からすれば、エロ本は夢のような存在なのである。写真という文明の結晶のたまもの、エロ本は日本が誇る文化であったと言っても過言ではない。

美しい空の話が、随分と脱線してしまった。

まあ、空の写真、特に夕焼けの写真は、誰がどう撮っても美しいし、同時に陳腐な絵はがきになってしまうことが多い。やはり前述した空気感が表現できるかどうかの差ではないか。

少なくとも私にはその技術はなく、本質を切りとるだけの独自の視点もなく、そんなわけでカメラにはもう一つ興味がわかないのである。

私に写真の才能があれば、思わず心を奪われるような空の写真を撮り、一瞬で勃起するようなエロい写真を撮ってやるのにと残念でしかたがない。