場末の映画館

昔は、映画館が小便臭かったもんだがなあ。

罪は償えない、という当たり前のこと。

私は、断然、死刑賛成派である。

犯罪抑止力になろうがなるまいが、そんなの関係ない。死をもって罪を償わせる、という意識もない。そもそも犯した罪は、凶悪犯罪であろうが軽微な犯罪であろうが償えないのだ。たとえ被害者の家族や被害者が「許す」と言ったとしても、それは許されただけであり、償ったことにはならないのだ。

懲役は犯罪に対する罰則であり、罪を償うためのものではない。服役を終えたからと言って、罪を償ったことにはならない。犯した罪は、死ぬまで背負っていくしかないのである。

よく安っぽい刑事ドラマで「おれは12年もムショに入ってたんだよ。罪を償ったんだよ」などというセリフを聞くことがあるが、あれは正しくない。刑期を終えただけである。間違った概念を拡散しているわけで、テレビ局と脚本家は反省するように。

死刑も単なる罰則の一つである。死刑が刑罰として存在する以上は、私は死刑に賛成する。死刑が憲法で廃止されれば、死刑は認めない。まあ、当たり前の話である。

さて、少し前のことだが、「絞首刑で死刑を執行するのは残虐で憲法に違反する」として、大阪拘置所に収容されている死刑囚3人が、執行の差し止めや計3,300万円の損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こしたんだそうだ。

執行の差し止めや損害賠償は「なにを言うとんじゃ」と呆れかえるのだが、おそらくリベラル派の弁護士たちにそそのかされたのだろう。

ただ、絞首刑の残虐性に関しては、割と賛成である。もちろん死なせる以上は残虐であるのは当然で、ただ、イメージとして「ガタン」と床が落ちて、死体が痙攣しながらゆらゆら揺れているというのは確かに怖い。辻元清美が必死の形相で追いかけてくる夢を見るのと同じくらい怖い。お願いだから、もう、出てこないでくれ。

だから、私としては、絞首刑以外に、電気椅子、ギロチン、薬物、銃殺、打ち首獄門くらいは用意していただき、そこから選べるようにすればいいと思うのだ。私ならギロチンを選ぶ。目隠しなしで、普通とは逆に上を向いて処刑してほしいものだ。その後、国会議事堂前の交差点でさらし首にしてもらえればサイコーである。その光景を想像すると、あまりの興奮に思わず勃起するのである。筋金入りの変態なのだ。

ちなみに弁護士は「執行の実態が全く知らされていないことも問題で、訴訟で明らかにしていきたい」と話しているんだそうで、それにも私は賛成だ。

死刑執行の実態は知らせるべきであり、できればテレビによる生中継をお願いしたい。もちろんMCに古舘伊知郎などを使ってはならない。エンタメではないのだ。あくまで「死刑はこんなに怖いんですよ。だから人を殺すのはやめましょうね」という啓蒙番組なのである。

まあ、イスラム圏では普通に処刑を公開でやっているケースもあるようだが、それでも犯罪はなくならないみたいだし、テレビ中継しても殺す人は殺すんだろうなあ。

こういうことを考えていると「自分には人を殺せるのか。殺したとして、どんな精神状況になるのか」などと思索が進み、「ちょっと殺してみるか」などという怖い結論に達しそうになってブンブンと頭を振るのである。

 

 

 

ガメラ派の「ゴジラ-1.0」レビュー

私は、断然ガメラ派である。

ゴジラがシェーをしたのを見て、子供ながらに腹を立てた。そして、「父上、もうゴジラを見にくるのはやめましょう」と進言したのだ。まあ、すぐにガメラも子供の味方に成り下がったのであるが、さすがにガメラはシェーはしない。

平成ガメラは、そこそこ楽しめたが、それでも子供っぽさは払拭できていなかった。昔ながらの怪獣映画だった。ギャオスの非情さがガメラにも欲しいと思った。

「シン・ゴジラ」を見たときは驚いた。こんな見事な会議映画は見たことがない。あのデジタル複合機のセッティングシーンは、会議映画としてベストと言っても過言ではない。ひとつ不満があるとしたら、デジタル複合機が京セラのTASKalfa206ciだったことだ。分速20枚では効率が悪すぎる。ゴジラを相手にするのだから、分速50枚が最低ラインだろう。

さて、そんな私が「ゴジラ-1.0」を見てきたのである。山崎監督に私は少し偏見があって、見る前に想像したのは「はぐれゴジラ純情派」みたいな作風である。「ALWAYS 三丁目の夕日」のイメージが強いのだろう。好きな映画ではあるのだが、私は、ドライなタッチが好きなのだ。「ゴジラ-1.0」にも重要な配役に吉岡秀隆がいる。これはもう、間違いなく「はぐれゴジラ純情派」になるのに決まっているのだ。

そのせいか「ゴジラ-1.0」には、苦手なシーンが多々あった。特に、危険な任務に対して皆が一致団結するシーンがあるのだが、私はこういうのが一番苦手だ。いつも斜に構えるひねくれ者である。

展開として面白かったのは、アメリカが介入してこなかったことだ。日本の敗戦直後、アメリカの軍が動けばソビエト連邦を刺激するのである。沈めるはずだった一部の艦船を引き渡すから、日本でゴジラをなんとかしろというわけである。

「シン・ゴジラ」では日本国政府の元、官僚を中心に自衛隊や民間の働く自動車が活躍したが、「ゴジラ-1.0」では、完全に民間主導の作戦だ。また、試作機「震電」の飛ぶ姿を見ることができるのもポイントが大きい。こいつを量産できていたら、無差別爆撃するB29を墜としてやれたのにと残念で仕方がない。大日本帝国、万歳!

人間ドラマは私が苦手な領域だが、それでも映画としては満点である。「シン・ゴジラ」も満点だったが、それ以上かも知れない。

見に行った映画館は、IMAXレーザーというシステムでちょっと高かったのだが、次は普通の映画館に見に行こうと思う。3回は映画館で見るべき作品だ。よ~し、今日、行ってこよう。いやいや、今すぐ行ってこようと思うのである。諸君も早く見に行った方がいいぞ。

 

 

 

略語を使う日本人に未来はない

私は、略語が嫌いである。

中でも「ママチャリ」は嫌いだ。私は、きちんと「お母さんの自転車」と正しく言う男である。まあ、アメリカ人なら仕方がないと思いますよ。彼らは脳天気で無神経だからな。彼らは、何でも略す人種だ。自分たちの神への言葉でさえ「OMG」と略すのだ。

だが、知的で繊細な日本人が略してどうすると言いたい。言葉は変化するものだが、こういう下品かつ無理矢理な変化は私は断固として否定する。いや、ウンコとして否定すると言い切ってもいいくらいだ。

私が初めて「あけおめ」という言葉を聞いた時、そのおぞましさに、私は思わず勃起した。いや、勃起はおかしいか。私は、そんな変態ではない。淫語を連発するお姉さんの言葉にも勃起などはしないのだ。嘘だと思うなら、私の耳元で隠語をささやいてみたまえ。さあ、ささやきたまえ。ピクリともいたしません。

さて、どこかの芸人が「バズる」などという下品な言葉を使っていて、私はそのおぞましさに思わず勃起した。

確か、左翼芸が得意な芸人だったと思う。一度、記事で書いたことがあるのだが、名前が出てこない。まあ、名前などはどうでもいい。問題は、「バズる」という言葉だ。どうやら彼のTwitterが話題になるだか炎上するだかし、それを「バズる」と言っているらしいのだ。

buzzというのは蜂がブンブン飛び回る音を表す擬音語らしいのだが、それを動詞化したのが「バズる」という言葉のようだ。なんと、下品な響きだろうか。恥を知れと言いたい。

さらに最近では、ますます略語の質は悪化しているらしい。例えば「了解」は「りょ」となり、しまいには「り」になっているのだそうだ。日本語の美しさなど、ここにはかけらもないのである。嗚呼、嘆かわしいことこの上ない。

そんなわけで、女子高生が「り」だの「パリピ」だの「タピる」などと会話で使っているのを聞くと、私は怒りのあまり思わず勃起するのである。

 

 

 

停電という名の地域差別

いやあ、あの時は驚いたなあ。

以前台風が我が家にもやってきたのだが、なんと14時間も停電が続いた。停電など、万一なったとしても数秒、長くても数分で復旧すると思い込んでいたのだが、その考えは甘かったのだ。

だが、14時間というのはまだましで、歩いて20分ほどの地域などは、一週間以上停電しているとニュースでやっていた。14時間であの不便さだったことからすると、それが一週間も続くなど地獄の責め苦である。

テレビのニュースでは、寮住まい女子大生が「お風呂には入れないのがつらい」などと嘆いていたのだが、その女子大生限定なら、私の家の風呂を貸してあげたいと思ったのである。

面白いというか、皮肉というか、悲喜劇というか、運命の不平等さを感じさせたのが停電のエリアが明確だったことだ。

「電気って大切だなあ」などと当たり前のことに気がついて、二階の窓から暗い夜の街をながめていると、いやあ、驚いた。裏にある家のキッチンの天窓が明るく光ったではないか。さらにその家が面した道路の街灯も点灯したのである。

「光あれ」

まさにその瞬間を私は目にしたのだ。感動的な一瞬だった。

「電気が戻ったのか!」などと一瞬喜んで、我が家の照明のスイッチを入れても、カチャカチャむなしく音がするだけだ。

「裏の家が電気ついとんのに、なぜ、ワシの家がつかへんのじゃーッ」と思わず地団駄を踏みましたね。思いっきり踏みました。危うく床を踏み抜くところである。

外に出てみると、ウチの家から南側が街灯も家の灯りも付いておらず暗い世界。北側は煌々と明るい世界である。まるで北側が資本主義、私の家から南側は社会主義のような状況だ。

復旧したのは、それから10時間後だ。その長かったこと。朝の4時に部屋の灯りがパッとついた時には、思わず関西電力の方向に向かって三拝したほどです。

ちなみに歩いて数分のところにある私の実家のエリアは、一度も停電していなかった。古くからある地域のせいか、関西電力が気をつかったのだろうか。「あのへん、うるさい人が多いから、電柱と電線、丈夫にしとこか」

後日、母親と会った際、「え、あんたとこ停電してはったん? それは、ご苦労はんどしたなあ」と彼女は、なぜか京都弁で言った。

 

 

 

 

「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」のちょっと情けない死ぬ前にやることリスト。

ああ、今日も一日が過ぎようとしている。

皆さん、ご存知か。一日が過ぎるということは、一日分死に近づくと言うことなのだ。人間はみな平等とは思わないが、少なくとも死に関してだけは平等である。畏れ多くも天皇陛下と言えども必ず死ぬ。ゴキブリ並みにしぶとそうな辻元清美さんだっていずれは死ぬのである。良かった。万歳!

で、私も死ぬ。当たり前のことである。極めて高血圧だから、わりと早めに死ぬのではないか。太ってもいないのに、なぜ高血圧なのか。スラッとしていると言われたこともあるのだぞ。太ってるくせに私よりも血圧が低い知り合いのオッサンが腹立たしい。どうか、彼を先に死なせてください、といつも神様にお願いしているのである。

さて、死ぬまでにやりたいことリストというのが、たまに映画やドラマでも出てくる。私の印象に残っているのは「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」という映画である。 私が大好きなルトガー・ハウアーが少しだけ出ているので見たのだが、いや、予想外にいい映画だった。

病院でもうじき死ぬと診断された二人の若者が、酒を飲みながらだべっている。

「実はおれ、海を見たことないんだ」「えーっ、そりゃあダメだ。天国では海の話をするのが流行ってるんだぜ。お前、仲間外れだな」「なんてこった」「じゃあ、死ぬ前に海を見に行くか」と車を盗んで海を見に行く話である。で、その車にはマフィアの金が積まれていて、という展開だ。

彼らが死ぬ前に叶えたい夢を話し合ったときに出たのが「二人の女とやる」という何とも笑える夢だった。二人のキャラクターは、ヤンチャ系とオタク系という正反対の設定で、もちろんそれはオタク系の夢である。

「情けないやつだな」と笑いながらも、私はふと思ったのだ。

いや、待てよ。私だって二人の女とやったことはないぞ。私には、彼を笑う資格はないな。

考えているうちに、「うーん、二人の女か。一人をこうして、もう一人をこうかな。しかし、チンコは一本だしなあ。一人に入れているときに、もう一人は寂しいのではないか」などと考え、「よし、キュウリを腰に付けて、二人同時に相手をしよう。いやいや、私の巨根に合わせるならキュウリよりもヘチマだな」などと考え、全裸の腰にヘチマを付けている光景を想像してわははははと笑ったのである。

ちなみに実行する場合に備えて、金額も確かめた。何事もしっかりとシミュレーションするのが私の流儀である。もちろん私は二人の女を相手にするような趣味はないのだが、いつどうなるかはわからない。備えあれば憂いなし。浅い川も深く渡れ。英語で言えばbetter safe than sorryである。

調べてみると二人相手だと75分18,000円~などと出ていて、いくらなんでも安すぎるのではないか。きっと一人はスキンヘッドの怖い顔をしたオッサンで「ワシが見てたる。当店の3P特別サービスや。見られてたら、めちゃ、興奮するでぇ」などと言うに決まっているのだ。

とりあえず三万円以上の店を選ぼう、と私は思ったのである。

 

 

 

「妖怪大戦争(2005)」がエロすぎてけしからん。

いやあ、実にけしからん。助平すぎる。

妖怪大戦争(2005)」のことである。 以前、Amazonで見たのだが、いまだにその助平すぎる映像に怒り心頭である。夜の寝入りばなに、ふと思いだしては「け、けしからん」と天に向かって号泣し、日本の行く先を憂いているのだ。

妖怪大戦争」には新旧あって、私が見たのは2005年版である。佐野史郎柄本明豊川悦司菅原文太栗山千明阿部サダヲ近藤正臣石橋蓮司、板尾釧路などという芸能界に無知な私でも知ってる役者が大勢出ている。さらには、忌野清志郎ぬらりひょん役で出ているではないか。いやあ、これは楽しみだとワクワクしながら見たのである。

そしたら、あなた。

まず、悪霊軍団のアギ(栗山千明)という妖怪がエロすぎる。私が風紀委員なら「露出度が高すぎるでしょうが~っ」と取り締まるレベルである。いくつかのコスチュームがあるのだが、まるでワカメちゃんのスカートみたいなものもあり、太もももパンツも見えてしまうのである。

さらにヒロイン役の川姫(高橋真唯)というカッパの妖怪もエロすぎる。太ももがなんとか隠れるくらいの着物を着ているのだが、もうね、しゃがんだときなど腰骨の辺りまで見えているのだ。「パンツくらいはいとけよ~っ」と思わず怒鳴ってしまうのである。

そして、極めつけは、ろくろ首だ。これは、断固としてけしからんと言っておく。いや、ウンコとしてけしからんと言い切ってもいいくらいだ。

小学生の男の子が主人公なのだが、長く伸びた首で彼をぐるぐる巻きにしてしまうのである。それだけでもエロいのに、なんと、彼女は男の子のほっぺたをペロリとなめてしまうのだ。しかも4回も。思わず「私もなめてくれ~っ」と叫んでしまったのである。

うーむ、この映画の監督はかなり助平なのではないかと思ったのだが、それが疑惑ではなく確信に変わったのは、あるシーンを見たときだ。私は、最初見たときは自分の目が信じられなかった。そして、映像を巻き戻して何度も何度も見返したのである。

空飛ぶ機械獣が出てくるのだが、それに捕らわれて逆さ吊りにされている人間たちが登場する。その中には、スカートを身に着けた女子高生もいるのである。もちろん、パンツ丸見えだ。こんなシーンをわざわざ入れることからしても、もう、助平に決まっているのである。

まあ、私のような観察力の優れた人間だと、最初の方の主人公のお姉さんが出た時点で「あ、この監督助平や」とわかってしまったのであるが。彼女の横からのショットは、ノースリーブのせいもあって胸の形がくっきりと出てしまっていたのだ。

いくら隠そうとしても、私にはお見通しなのだ。 ディテールにエロは宿る。頭隠して尻隠さず。団子隠そうより跡隠せ。英語で言えば、That’s behaving like an ostrichである。諸君も気をつけたまえ。助平は、いくら隠しても速攻でバレるのである。

 

 

 

その空も裸の女も、つまるところは紙である。

 

なにが美しいってあなた、空ほど美しいものはない。

夕焼けはもちろんだが、青空も曇天も雨雲もすべて美しい。海や山々も美しいが、その色合い、造形において、空の美しさは突出している。あまりの美しさに、私は感動が極まって脱糞することがある。いや、まあ、それは嘘なのだが、それほど美しいということである。

昨日も夕焼けが美しかった。西の空がオレンジ色に染まり、雲が紅く燃え、山の稜線が黒く縁取られ、水田に夕焼けが映り、まるで一幅の絵である。そのあまりの美しさに私は思わず脱糞するのであるが、ここで注意すべきことがある。

肛門を硬く閉めよ、という注意ではない。脱糞など気にする必要はない。気にすべきは、いくら感動しても、写真は撮るなということである。

正直、私はその夕焼けを撮ってしまった。「美しいじゃないか」とL.L.Beanのフィールドコートのポケットからデジカメを取り出し、シャッターを押したのだ。そして、帰宅してからパソコンに取り込み、画像を確認してひどくがっかりした。いつもそうである。

私の愛機GRデジタルは、決して安物のカメラではない。描写力においてはそれなりに優れているはずである。だが、モニターに映し出されたこの夕焼けはいったい何なのだ。のっぺり、陳腐、ポンポコピー。先ほど見たはずの雄大な夕焼けの1%も表現できていないではないか。

確かに写真としては美しい。だが、薄っぺらなのだ。あのスケール感、何よりも空気感が皆無なのだ。ウンコとかりんとうが似て非なるものであると同様、本物の空と空の写真との間には、越えられない垣根があるということだ。

つまりは、写真は写真でしかないのである。

もう、何十年も前のことだが、私がたどり着いたひとつの真理がある。今はネットでいくらでも助平な画像や動画が見られるのだが、当時はエロ本しかなかった。そんな寂しい時代に気付いた真理である。

その時、私は乏しい資金を前に「やっぱりこの巨乳女子高生のを買うかな。だが、とても女子高生には見えんしなあ。どうみても32歳だぞ。こっちの団地妻の方がエロそうだし表題に嘘偽りのない点は評価できる。いやいや、待て。それならこっちの熟女の方が」などと思い悩んでいて、ふと、自分が馬鹿に思えたのだ。

エロ本を前に思い悩む自分に嫌気がさしたのである。

私は思わず「こんなもんつまるところは紙ではないか。紙の上にインクが乗っているだけにすぎんのじゃあ。わしが追い求めるのは、本物のエロい女であって、こんな紙ではないはずじゃあ」と自分に強く言い聞かせたのである。私がエロを求めるその本質に気付いた瞬間だった。

で、そのまま本物のエロい女を捜しに巡礼の旅に出たかというと、実際には団地妻のエロ本を買ったのであるが。まあ、印刷物とは言え、日本の印刷技術は優秀だからね。そもそも江戸時代の浮世絵に興奮していた連中からすれば、エロ本は夢のような存在なのである。写真という文明の結晶のたまもの、エロ本は日本が誇る文化であったと言っても過言ではない。

美しい空の話が、随分と脱線してしまった。

まあ、空の写真、特に夕焼けの写真は、誰がどう撮っても美しいし、同時に陳腐な絵はがきになってしまうことが多い。やはり前述した空気感が表現できるかどうかの差ではないか。

少なくとも私にはその技術はなく、本質を切りとるだけの独自の視点もなく、そんなわけでカメラにはもう一つ興味がわかないのである。

私に写真の才能があれば、思わず心を奪われるような空の写真を撮り、一瞬で勃起するようなエロい写真を撮ってやるのにと残念でしかたがない。