場末の映画館

昔は、映画館が小便臭かったもんだがなあ。

道を訊かれる男

 今は、迷いの時代である。誰も彼もがどの道を行くか迷っている。ほら、前から近づいてくるあの男も。

「あ、すまんけど。北田病院は、どっちやろ?」

 私は、こっそりとため息をつく。なぜ、「北田病院をご存知ですか?」と尋ねることができないのか。私が北田病院を知っていて、確実に教えてくれるという場合にのみ、「北田病院はどっちやろ」という設問は成立するのである。

 きちんと常識的な問いかけをしてくれたら、私は「いやあ、この辺は私も不案内で」という完璧な答えを返すことができるのだ。英語なら、「アイムソーリー、アイムアストレンジャーヒアマイセルフ」である。

 そのサラリーマン風の中年男は、じっと私の顔を見つめている。教えてくれるのを待っているのだ。私は、その信じ切った表情に追い詰められていく。

 なぜ、私はこんなに道を訊かれるのか。そんなに道に詳しいような顔をしているのか。私が国土地理院にでも見えるというのか。

 それともすぐに教えてくれるような親切な雰囲気を醸し出しているのか。道を訊きやすい人ランキングなら、おそらくトップ3に入ることができるだろう。月に五回は道を訊かれるのである。スマホが浸透する前は、もっと回数は多かった。最高、月に十八回である。

 そして、道を訊かれることを恐れる一番の理由なのだが、私は徹底的な方向音痴なのである。よく知っている場所ですら間違えて教えてしまうのだ。正反対の方向を教えたことに気がついて、どれだけ自己嫌悪に陥ったことか。

 男は、まだ私を見つめている。

 北田病院など知らないのだが、男の信じ切った眼を見ていると、「知らない」と答えることが罪悪のように思えてくる。仕方がなく、私は、懸命に北田病院の場所を推測しようとする。

「北田病院……ですか。名は本質を表す。北田という以上は、北にあることは明白と言えましょう。しかし、ここで問題なのは、どこから見て北かという点であります。新宿から見て北なのか、それとも高円寺から見て北なのか。物事は、すべて相対的だと言っても過言ではありません」

「そ、相対的……」

 私は、怯えに似た感情に囚われる。失望させたのだ。彼が望む言葉を、私は発することができなかったのだ。

 私が道を訊かれることを恐れる二番目の理由は、コミュ障だからである。なんとか会話を成立させようとするあまり、普通の人の会話術からはどんどん遠ざかってしまうのだ。

 ああ、早くこの場から逃れたい。

その気持ちが高まり、「あ、あっちです」とつい私は言ってしまう。私の指は、北の方向をさしていた。

「あ、そうでっか。どうもおおきに。助かりましたわ」

 男は、ホッとしたような表情で軽く頭を下げた。そして、北へ向かって歩き出した。私は、デタラメを教えてしまったという罪悪感でいっぱいだった。おそらく今日は眠れないだろう。

 確かにその日は眠れず、次の日も布団に入って悶々とし、だが一ヶ月がたつ頃には。記憶は消えていなかったが、罪悪感は薄れていた。恥ずかしさと同様、時間がたてば、そうした感情は色あせていく。それこそが救いだ。だからこそ人間は生きていけるのである。

 今、目の前には海がある。今日は久しぶりの休暇で日本海側にやってきた。気分を変えたかったのだ。後悔を少しでも軽くしようと、バイクを引っ張り出した。

 だが、太平洋側とは違う海の色が、私を責めているような気がする。

 申し訳ない、と私はあの時の中年の男に頭を下げた。後悔は少しも薄れてはくれない。それが私だと諦めるしかないのだろうか。

 バイクを降りて海岸の方に向かう。風が吹き、木々の葉が心地よい音を立てる。

 その時、私は、後ろから足音がするのに気がついた。振り返るとヨレヨレのスーツを着た男がいた。髪はボサボサ。そう言えば、峠道を走っているときに追い抜いた記憶がある。ホームレスのようだ。

 あれ? あの男の顔は。

 私は、恐怖を感じる。物理的に心臓を締め付けられたような恐怖だ。男は、私の顔を見てホッとしたような表情を浮かべた。そして、言った。

「あ、すまんけど。北田病院は、どっちやろ?」

 その男は、あの時と同じ口調で同じセリフを繰り返した。異臭が鼻を突く。この男は、私が指さした方向にずっと歩き続けてきたとでも言うのか。顔は垢で黒ずみ、唇はひび割れていた。

 私がこれまで間違って教えてきた連中は、いったいどこへ行ったのだろう。この男と同様に、間違った方向へ歩き続けたのだろうか。恐怖がさらにふくれあがり、私は吐き気を感じた。

「あ、あっちです。北田病院はあっちです」

 私は、今の状況から逃れたい一心で適当な方向を指さした。

「あ、そうでっか。どうもおおきに。助かりましたわ」

 男はそう言うと軽く頭を下げ、私が指さした方向に向かって歩き出した。

 どれだけ時間がたったのか。

 風が吹く音が聞こえ、私は我に返った。あの男はどこだ。私は、自分が指さした方を見た。そちらの方向には、海岸があった。まさか、と考え、下半身から力が抜けていく。

 私は、よろめきながらも海岸に向かって走った。車一台が通れるほどの細い道だ。両脇は濃い緑である。海のすぐそばに立ち、私は男の姿を探した。海の輝きが目に刺さる。

 私は目を凝らす。だが、男の姿はどこにもなかった。