場末の映画館

昔は、映画館が小便臭かったもんだがなあ。

大便戦記

 

 某企業からの依頼で新しい雑巾の商品企画を考えていた。

 クソ。なぜ、私のような一流のプランナーが雑巾の企画を考えなければならないのか。不条理この上ない。

 私にふさわしいのは、大都市のランドマーク計画やプレステ6用のゲーム企画であるべきで、せめて女性下着の商品開発でなければならない。「ああ、試着の際は、必ず私も呼んでくれたまえ」

 いや、決して雑巾を馬鹿にしているわけではない。逆に雑巾のことは尊敬している。雑巾がなければ、何で床を拭けばいいのか。考えつくのは、朝日新聞くらいである。だが、朝日新聞は、月額4,900円だ。コスパが悪すぎるのである。やっぱり安い雑巾がサイコー!

 ああ、クソ。

 と私は、世間の風潮に向かって罵倒する。昨今のポリコレやLGBTなどの社会的少数者に対する配慮が私にも染みこんでしまっているようだ。雑巾にまでへりくだってしまうのである。

 クソ、雑巾の分際で。胸の内に雑巾に対しての憎しみが湧き上がった。

 よ~し、わざと牛乳をこぼして雑巾で拭いてやるのだ。あれは、臭いからなあ。その状況を想像し、ふふふとほくそ笑む。自分のニオイに絶望するがいい。

 ふとひらめいて、「牛乳を拭いても臭くならない雑巾」というコンセプトを思いつく。よし、とりあえずこれで行こう。

 どうせ、企画料は10万くらいしか予算がないんだ。クソたれめ。この程度の企画で十分だ。

 今日の仕事は、ここまでにしよう。

 そう私は決定し、トイレに向かった。実は、先ほどから便意を催していたのだ。クソ、クソと連発しているのもそのせいだ。

 トイレに入った瞬間、私は、顔をしかめた。

 実は、仕事場のビルの同じ階に、すごくウンコが臭いオッサンがいるのだ。今日もそのオッサンは個室を使った。匂いでわかるのである。

 もちろんウンコに罪はない。悪いのは、そのオッサンの食生活なのだ。

 で、トイレットペーパーの芯を床に落としたままのオッサンもいて、私は同じ人物だとにらんでいる。

 偏見かもしれないが、ウンコがすごく臭いやつは、モラルも低いように思える。逆にウンコがいい匂いの人は、モラルもいいに決まっているのだ。

 まあ、ウンコがいい匂いというのはあり得ないと思うかも知れないが、私のウンコはかすかにバラとバニラの香りがする。嘘だと思うなら、出たてを進呈するから事務所まで来たまえ。

 さて、ウンコの匂いに気がつくということは、どういう現象であるかご存知か。

 鼻孔の受容体にオッサンのウンコの微粒子がぶつかっているということである。つまり、オッサンのウンコの匂いを嗅いでいるということは、オッサンのウンコの一部を吸い込んでいるということなのだ。

 非常にけしからん。

 私は、こういう無用な知識があるために、嫌な匂いをかぐたびに、「ああ、今、風呂に何ヶ月も入ってない人の体の一部を吸い込んだなあ」とか「ああ、今、私の前に小便をした糖尿病のオッサンの尿の一部を吸い込んだなあ」とか、大変嫌な思いをしている。

 大変嫌な思いをしておりますぞ~っ。

 皆さんもこの知識をしっかり記憶して、嫌な匂いに気が付く度に、嫌な思いをしていただきたい。それでこそ平等というものだ。

 さて、トイレでオッサンのウンコの匂いに気がついた場合、どうすればいいのか?

 人間というものは、主観で生きている。つまり、オッサンのウンコの匂いが嫌なら、トイレを自分のウンコの匂いで満たせばいいのだ。オッサンのウンコの匂いには耐えられなくても、自分のウンコの匂いなら大丈夫だ。

 ここで問題になるのが、ウンコの匂いのレベルである。オッサンのウンコがレベル5だとすると、私のウンコは、レベル1であると考えられる。非常に劣勢である。5引く1は4だ。つまり、私はやや臭いがマシになったオッサンのウンコの匂いを嗅ぐことになるのだ。ほとんど変わらないではないか。

 オッサンのウンコに勝つには、自分のウンコを鍛えるしかない。

 そんな決意を固めながらトイレが出たところで、オッサンの事務所のドアが開いた。見ると、タイミング良くオッサンが出てきた。

 まずは情報収集だ。調査し、計画し、実行する。そして、勝つ。それが私のフレームワークである。

「何を食べれば、そんなにウンコが臭くなるのかね」と私はオッサンに問いかけた。